直虎の嘆き。ひとを信じること。そして政次 ~31回 おんな城主直虎~
まとまらない頭をどうにかまとめようとしております。
あらすじ
31回「虎松の首」
直虎(柴咲コウ)は今川氏真(尾上松也)の命に従い、徳政令をうけいれることを決める。これは井伊谷が今川の直轄地となり、井伊家が取りつぶしになることを意味していた。直虎と政次(高橋一生)はいったん今川家に従うふりをして時を待ち、裏で家康(阿部サダヲ)と手を組むことで井伊家復活を図るという策を取ったのだ。虎松(寺田心)をはじめとした井伊の一族は領地を追われ、川名の隠し里に残ることになる。川名に移った直虎は、家中の者たちに政次の真意を伝える。そんななか、氏真は政次が城代に据える条件として、虎松の首を差し出すよう要求してくる。一方、直虎はそうした要求を予測し、身を隠すべく虎松を三河の寺へ送り出す。政次は氏真からの要求を満たすために、郎党を引き連れて井伊の川名にやってくる。しかし虎松はすでにおらず、代わりに直虎を城に連行。虎松のものとされる幼子の首を改めさせる。疱瘡(ほうそう)のためと偽り厚化粧を施された首は、虎松の身代わりとして政次が殺めた子供のものだった。直虎は首をかき抱いて涙し、経を唱える。一部始終を見た関口(矢島健一)は追求の手を緩め、直虎と政次は窮地を脱する。
第31回「虎松の首」|あらすじ|NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』
今週の雑感
しんどいですね… 四方八方しんどい… 最初から最後まで涙。六左の持つ空気に少しだけ癒やされつつ、鎖帷子を、鎖帷子をお貸しくだされ~~!!のその姿を見てもまた涙…
先週書いたように、思いもかけない百姓たちの直訴を目にした政次は、きっとこのままでは百姓たちが成敗されることが避けられないと咄嗟に考えたんでしょう。彼らをなだめ、事を収めるには直虎を使うしかないと…
政次は、今川から信を得ていないことに焦りを感じていて、自分がずっと井伊側であったと見抜かれている事をどうしてもひっくり返す必要がありました。今川からの盾で居続けるには、関口殿をとことん騙す必要があって、その好機が百姓たちの直訴だったんだけれど…
お互い話をしていないから、政次の行動を慮るしかない直虎に、だからこそ「信じろ」と2回も念を押したんだなぁ… それも「おとわ」というマジックワードを使って。
でも、直虎は真意を計りかねている様子。あれだけこころを寄せ合い、25話では遠隔で囲碁をすまでになり、龍潭寺での囲碁を指しながらの会議を重ねてきたのに、突然の政次の行動は直虎を悩ませる。
政次が井伊の館に乗り込んできて早く出ていかなければ力に訴えなければならないと脅すさまを目のあたりにして、疑念が頭をかすめた…?
隠し里に着いてから、直虎は今までずっとひた隠しにしてきた事を皆に話します。
直虎「但馬は実は全て知っておる。但馬はもうずっと井伊の敵のふりをすることで今川に対する盾になってくれておるのじゃ。此度は敢えて井伊を裏切り、今川の城代として城に入ることで井伊を護ろうとしてくれておるのじゃと思う」六左「思う、とは?」直虎「きちんと話せてはおらぬでな。じゃが今は、井伊を護るために敢えて今川の味方しようとしてるのじゃと思う」<中略>直之「それも含め、騙されておられるということはござりませぬか。殿を籠絡し、我々にも真のところ、味方だと思わせる。今のこの有様こそ、まさに騙されてるということではございませぬか」直虎「それはないと思う」直之「まことにそう言い切ってよろしゅうございますのか」
この後に言い切ることができない直虎の苦悩の色、和尚の言う、まさに試されてるんだと思うのですが、つくづくひとがひとをまるっと信じることができるかどうかの難しさ。私たちにも突きつけてるようで…
百姓たちが直訴にやってくること。これは百姓たちが直虎を好きで信頼していて、殿の一大事だと思って善意から起こした行動であるのだけれど、これが実は直虎を追い詰めることになるかもしれないとは想像できず。
良かれと思ったことが悪手になる。悲劇にも繋がる。私自身の中にある善意の気持ちが果たしていつも良い結果を生むものか?
このドラマのしんどいところは、もちろん今回のような命のやり取りもあるんだけれど、戦国時代だけの話ではなく、ものごとの根源のようなものを突き詰められて聞かれているようで、すぐに答えが出なくて、お話の部分と共に考えてしまうからなんだと思うんです。
直虎の嘆きと涙
虎松の首を改めよと言われた直虎がその首に抱きついて泣きながら経を読み始めたとき。初見のときにはわからなかったのだけれど、録画を見ていたらその嘆きが幾重にも意味を持っているのが流れ込んできました。
虎松の身代わりになってしまった幼い子供への申し訳無さと哀しみ。
ここまでのことを政次にやらせてしまった自責。
政次をほんのちょっとでも疑ってしまった自分の不甲斐なさ
これまでは今川から奪われるだけで自分たちは被害者だと思っていたのに、家を護っていく為に加害者に為らざるを得ないという非情。
いや、わかりません。どれも私がそうあればいいな、という希望だけなのかもしれません…
幼子の首をかき抱き、経を唱える直虎の悲しみの表現がとても素晴らしくて、尼姿なのが更に悲しみを倍増させ、政次のいろいろを考える前に直虎に惹きつけられてしまいました。
政次
苦しいですね…
でもこれが連続ドラマの醍醐味。ここまで苦しい気持ちになるのはずっと見てきたからこそのご褒美なんだと思います。(苦いですが)
政次の覚悟の眼や表情や振る舞い。佇まい。そして息遣い。全てが政次がそこにいてほとうに生きているかのように見せてくれる。
彼を見ていると、俳優さん自身のこの言葉を思い出すんです。
「高尚にするわけではないですが、(芝居は)ある種、シャーマニズム(祖先の霊などと巫女=シャーマンを通して心を通わせる原始宗教の一種)みたいなものも入っているんじゃないかと思っていて。(演じる人物を自分の中に)下ろすというか、その瞬間を常に待っている感じがするんです。
[高橋一生]「おんな城主 直虎」複雑な“政次”への愛情語る「よしよししてあげたい」 | マイナビニュース
前にも引用したかもしれません。以前から彼には巫女/覡 のようなものを感じることがあって、本人がシャーマニズムという言葉を使っていることにとても納得したんです。役作りをするのではなく、役を自分に下ろすというのが政次の役ほどぴったり合う表現はないのではないか。それくらい「生きている」。
こないだのあさイチで、ずっと政次をやってきたから考え方が政次のようになってしまっている、と仰っている箇所がありました。うわぁ、まさにシャーマンだ、と思いました。そんな政次が見れることがとても嬉しい。寂しいんだけれど嬉しい。
初回から鶴・政次を見てきて、ひとりの男の人生がどう終わりを迎えるのか。「彼にとっての井伊谷とはなんであったのか」その答えを見つけたいと思います。
最後に
直虎のことを書き始めたのが4月なんですが、この記事が最初でした。
12回で政次が闇落ちした(かのように見せた)時、どこかに思っていることを書かなければ気持ちの持って行き場がなくて苦しくてしょうがなくなりました。そこで書き始めたわけなんですが、この記事を今読んでみるとそんなこと考えてたんだ…と笑 高橋一生の眼がすごい、と書いてますね…
そこから4ヶ月。書くことで気持ちを整理したりこんがらがった頭をすっきりさせたり。書くことの威力はすごい。拙い文章を読んでくださる方がいて、コメントくださったり、Twitterでたくさんの方とも繋がったり。ひとりで見て、ひとりで書くだけじゃなく、同じものが好きな方たちと感想を共有するのはとてもとても楽しいです。
改めて感謝致します。
そして、政次退場後も、この大河ドラマを最後まで観て、笑って泣いて12月の最終回を迎えたい。そこまでこのブログ記事も続けていきたいと思っています。
読んでくださり、ありがとうございます。
(Twitterをやってらっしゃらない方も、これを見て始めようかなと思われたら、是非いらしてみてください。私の書いたものに同意もあれば異論もあるかと思います。お話したいので、ぜひ一声おかけください。)
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