”普通”の概念から遠ざかる
おっさんずラブ最終話からもう1ヶ月以上… ロスって何??何だっけ??なくらいまだまだおはなしの中にどっぷりです。
今日は、大事なツイ友のこの一連のツイートを読んで考えたことをつらつら書いていきます。
牧はね、普通になりたかったんだと思う。普通に恋して、普通に好きな人とデートして、暮らしてって。別にゲイである事を公にしないけど、だからってコソコソしたくはない。でも合コン誘われて「あ、俺ゲイだから」って断る勇気もない。だからこそ普通になりたいの。でも政宗は、生きてきた年代が→
— きのくろ (@seo1644) June 30, 2018
最後のツイ。
それが普通だから。春田が渡ったのは、ゲイになるとか男同士の壁じゃなくて、『普通』という世間の目に囚われていた牧くんを救いに行ったんじゃないだろうか。
— きのくろ (@seo1644) June 30, 2018
本当にその通りだと思っていて、ぼんやりとしていた部分をこうやって言語にしたものを読めると、すっきり感で嬉しくて小躍りしたくなります。きのちゃんありがとう…
牧が囚われていたのは世間の目。「普通」ということ。
いつも私が思っているのは、「普通」という言葉の持つネガティブな側面。それを使う瞬間に、何かを退け、そこに優位性や差別が生まれてしまうんじゃないかと。
でも、20年くらい前は”普通”に誰よりも囚われていました。
こどもの首が座る、寝返りを打つ、つかまり立ち、歩く。
これくらいの月数でできるのが普通っていうのに当てはまらなくて、すごくすごく辛くて、普通に当てはまらないのは自分のせいだと思い込んで泣いていた。世間というより、自分が作り上げた”普通”の範疇に入らないことに耐えられなくて苦しくて…
私の中の”普通”という概念を壊してくれたのは彼女だったかもしれない。歩き始めたのも喋り始めたのも”普通”より遅くて、逆上がりも馬跳びもできず一輪車も乗れない。学校のテストで点数が取れない。”普通”できることができずに本人が一番辛かったろうと今更ながらに思うけれど、今自分で得た場所で生き生きとしている。好きな事があってなりたい未来に向かって着実に歩いている。
義務教育の中での生きづらさをそばで見てきたからこそ、今の彼女の笑顔を見ると嬉しくてたまらない。言葉が少なかった子が様々なことを話してくれるのは悦び以外のなにものでもなく。
春田が牧を救ったように、彼女の笑顔は私を救うのだ。普通に囚われていた私を。私になかった感覚を感情を新たに生まれさせてくれたことにとても感謝しています。
親から教師から学校から親戚から友達から何気なく受け取っている”普通”でありなさいと言うメッセージ、それが悪意のあるものではなく善意からきているものであっても、ジェンダーやものの好き好き、考え方、こうありたいなりたいと思うこと、全てに”普通”と言うフィルターにかけないと前に進めない姿勢からそっと遠ざかる。
”普通”を自分の言動や行動の拠り所としない。”普通”で他のひとを縛らない。
知らず知らずのうちに口にしている言葉や認知についても少なからず誰かを傷つけてるかもしれないことを忘れず…
春田と牧についてもまた書きたいなと思ってます。
それでは良い週末を。