MENU

レビー小体型を患った母の晩年を振り返っての一番の後悔

昨日、父がひとり暮らしになってからの事を整理しながら書きました。そうしたら、ふいに母のことが思い出され、会いたいなぁ…って思って泣きました。

母の病気発症から晩年まで

母は2014年末から症状が出て、半年くらいはかかりつけ医で診断もされずにいたのですが、症状が重くなって専門病院を受診。レビー小体型認知症と診断されました。それが2015年7月。   その辺りの話はこちらに書きました。

https://yutaka-sukkiri.com/2015/07/13/oya-byoki-1/

https://yutaka-sukkiri.com/2015/07/15/oya-byoki-2/

そして、亡くなる2か月前、病気を発症して5年経っての近況のようなものを書いています。

https://yutaka-sukkiri.com/2019/11/26/oya-byoki-4/

一番の後悔

かかりつけ医が認知症と診断してくれずだらだらと薬を出すだけだったこと、すぐに専門病院を受診しなかったこと、それも後悔のひとつではあります。   でも、レビー小体型認知症予後が7,8年というなか、5年と少しで亡くなってしまった母を振り返ると、ここがターニングポイントだったなぁという事柄が浮かび上がります。  

それは、5年経っての近況にも書いてありますが、白内障の手術」です。   これは二重に後悔してもしきれないことなんです。   ひとつの後悔は、母の意志を尊重しなかったこと。母は全くこの手術をしたくなかったんです。ただ、父や私が目が見えるようになった方がいいに決まっている、という決めつけに普段からノーと言えない母が抵抗できなかっただけ…   もうひとつの後悔は、入院しないと手術できない病院を選んでしまったこと。   両目を同時に日帰りで手術できるような病院をちゃんと探せばよかった、ということです。   手術というだけで怖いものなのに、それを片目ずつ、2回、1か月置いて手術という手段をとってしまったんですよね。市の一番大きな病院がいいだろう、というだけの選択をしたばっかりに。

手術後の変化

それまで手放せなかったメガネが必要ではなくなりました。   白内障の手術を受けると、近視が治るとのこと。   その変化が母には苦痛のように見えました。   歳をとると、特に病気の母には変化がいちばんキツイことのように今なら思えます。   今振り返ると、この手術を境に、母の病状は悪化していきました。   手術をしたからといって、テレビを積極的に見るようになったわけでも新聞や本を読むようになったわけでもなく、ただただ、手術への恐怖や不安感が、より症状を重くしただけでした。  

親の性格を見極め

父は、ステージ2の前立腺がんと診断された後も全く不安がりませんでした。前向きに治療をし、放射線も受け、今は完治しています。   それは病気への耐性というか、性格がとても大きく影響するんだと思います。  

母は根っからの後ろ向きな性格で、自分が認知症になるなる、と言っていたらほんとになってしまった人でした。   同じ病気であっても、その人の性格や考え方次第で治療は変わってくるだろうし、それに付随した看病なども変わってくるんだなぁと痛感します。  

いい悪いではなく、親によっての接し方というか、病気に際しての諸々決めていくことに関しても、親本人の考えを尊重することを強くお勧めします。   周りがよかれと思っていても、本人にとっては相当な苦痛なことがあると今になって後悔しても遅いことをあれこれ考えてしまってます。  

最後に

宇多田ヒカルの歌に癒されます。たぶんお母さんのことを歌っているんじゃないかな、という歌がたくさんあるんですが、その中でも、「道」という歌が好きです。ここまで母親への思いが私にはあるだろうか?と考えながら聴きます。

https://open.spotify.com/album/3OsjveYa3ODxbAHuoZp7MS?si=KvWVLgYFT4-U-Xql-fMi_w

************* お越し頂きありがとうございました。

あじさい