エロティシズムについて思うことなど
Twiitterで目にしたツイートから、どうしても書きたくなったので書きます。最近、読んでくださる方が増えてきたようなのですが、基本好き勝手なこと書いているので、興味のない方はそっと閉じて頂けるとありがたいです…
そのツイートの内容は、おんな城主直虎が、ふたりの表向きと裏での関係と男の複雑な愛から、エロいシーンがあるわけじゃないのにエロティシズムを感じる、というもので、ほんとにそのとおり!と思ったんです。男女の仲になるどころか手を繋ぐでも、恋だの愛だの言ってるわけでもない、一時は一方が一方を激しく憎んで反目もする。
なのに、画面から滲み出てくる色気。エロティシズム。なんなんだ。
そもそもエロティシズムっていう言葉、何でしょうね。
エロいっていう日常で使う言葉はここから来てるんでしょうが、エロい=エロティシズム じゃないような。内包する意味合いの総量としては、エロい≦エロティシズム かな。だから、エロティシズムと言う言葉は、”エロい”では表し切れない抽象的なものが含まれるような気がします。
難しいことがいろいろ書かれているんですが、結局のところ、エロティシズムというのは性愛の行為そのものから得られるんじゃない。行為やイメージを想像、喚起、暗示すること、そしてそれをすることによって得られる情緒、色香みたいなものかなぁと。
だから、このふたりの雰囲気から湧いてくるのは、まさにエロティシズムに他ならないよ…と。
触れるか触れないかのぎりぎりを見せてくる
方久を家来とし、ふたつの村を方久所有のものとした時、今川からの徳政令の下知に対抗する為の苦肉の策として、「守護不入」を使ったことがありました。その時に思わず出てしまった政次の手。きれいに揃えられた手が直虎の手に一瞬触れ、直虎がさっと手を引く。
また、お下知の文を渡す時。触れるか触れないかくらいのお互いの手の位置。
そして、歴史ドラマならではの、ふたりを隔てる邪魔モノの着物。互いの距離が初めからちょっと遠い(気がする)。時代劇の前提として、着物のせいでほとんど露出がない。手と足だけ。そして、隠すからこそ、そそられる何かがある。崩れた袂をちょっと直す仕草だったり思わず露わになった腕や足だったりが、全裸よりも遥かに艶めかしい。
距離を縮めようと、相手を触る時も素手ではなく、着物を通してになる。でも、その様が、素手を触っているときよりも喚起を促される。着物を通して、よりお互いの温度を感じているような気がする。
表と裏の使い分け
ツイートにもありましたが、表で政敵と見せているのに、裏ではお互いを信頼し合う同士のような関係で、更に、男が複雑で拗れた愛を持ちつつ、それを一切女には見せずに押し隠している。
周りを一緒に欺くというある種の共謀関係が、見ていてエロティックなのは、お互いがその意識を共有し、共有している状況を楽しんでさえもいるんじゃないかという点にもあると思います。ハラハラ。ドキドキ。
今回の最後、隣国との姻戚関係の話をまとめて来た政次が、キョロキョロと周りに誰もいないかを確認し、ふたりだけで会話、方久が来たとわかると、さっと笑顔を消し、離れるという場面がまさにこれに当たるかと。
但馬の仮面被りながら、鶴?!な笑顔と。誰もいないかキョロキョロ確認して、方久の声と同時にパッと離れるふたりの背徳的社内恋愛感が甘酸っぱくて見てて嬉しいやら恥ずかしいやら#おんな城主直虎 pic.twitter.com/tt3aWdZteA
— hydrangea@あじ (@hydrangea_11) June 20, 2017
単なる主従ではないねじれ。
抑圧と本質
さらに。
ここでこのねじれを加速させるのが、政次が自分を抑制、抑圧していることだと思うのです。幼い頃から、直虎と直親を傍で見ていた政次は、自分の立場(家臣の子供)とふたりの相思相愛ぶりから、自分の気持ちを表すことは全くない。
でも、彼の視線や表情から、十二分に視聴者には直虎を一途に思っていることが表現されていて、その気持を持ちながらも、相手に知らせることなく自分の奥底に押し込めてしまっている様子にじりじりして来ました。
例えば、「還俗して」の場面。
還俗して、の場面の鶴の不憫さっておとわがノーなのが分かってて言ってるのが見ててわかるし、イエスと言ったら言ったでどんだけ亀が好きやねんって事になるしで、わざわざ自分で自分の首を絞めるような問いかけなんだけど、それを言わずにいられない位、おとわの頼みが鶴を抉る…#おんな城主直虎 pic.twitter.com/uJw0pYlBKz
— hydrangea@あじ (@hydrangea_11) June 3, 2017
それから、奥山殿に斬りつけられ反対に殺してしまった後に、次郎法師のいる龍潭寺に来た時。
「次郎様に助けてもらう義理はない」
ここに、政次の本質のようなものが見えると思うんです。思いを持ちつつ、それを抑圧することで自分を律していて、それが最上だと信じてもいて、でも、自分の思いを皮肉とからかいと言う衣をまぶしながらも相手に伝えざるを得ない。
その抑え具合と抑えきれなさが、まさにエロティックだなぁと。
話がちょっと飛びますが、こういう同じような性質のエロティシズムを感じる作品があります。それは夏目漱石の「それから」です。
主人公の代助が、昔義侠心から友人の平岡に譲った三千代と、お互い思い合っているけれどそれを出さずに会話をする場面。百合の花を買って代助宅に来た三千代が花器からお水を飲むシーン。
そして、代助がとうとう三千代に思いを伝える。
「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」と答えたまま、猶しばらくは眼を相手から離さなかった。三千代は忽ち視線を外らした。そうして、半ば独り言の様に、
「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」と云った。
三千代の言葉は普通の談話としては余りに声が低過ぎた。代助は消えて行く影を踏まえる如くに、すぐその尾を捕えた。
「違やしません。貴方にはただそう見えるだけです。そう見えたって仕方がないが、それは僻目だ」
代助の方は通例よりも熱心に判然した声で自己を弁護する如くに云った。三千代の声は益低かった。
「僻目でも何でも可くってよ」
代助は黙って三千代の様子を窺った。三千代は始めから、眼を伏せていた。代助にはその長い睫毛の顫える様が能く見えた。
「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけの事を貴方に話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」 夏目漱石 それから 青空文庫
映画では松田優作と藤谷美和子がそれぞれ代助と三千代を演じているのですが、原作の雰囲気を損なわずに再現されていて素晴らしいです。
抑圧と解放と。そこから立ち上るエロティシズムを、読む度に感じています。
さて、最後の最後で代助は思いを伝えました。政次はどうでしょう。この先、伝えることはあるんだろうか。「伝えない」ことで違う景色を見せてくれるんでしょうか。
タイトル下に使った写真では、伝えないことで彼自身が感じる痛みを表していました。そこから動くことがあるのか。龍雲丸の出現でもたらした何かが彼を変えていくのか。
今週の日曜には、ついに、着物という介在物なしに、自分の手を直虎の頬に当てる、場面が放映されます。どう描かれるのか。今までの段階からひとつ、或いは数段階段を上るのか。
待ちます…