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「ドライブ・マイ・カーと自分の病気と」<ネタバレ感想>

こんにちは、あじさい(@hydrangea_11)です。

 

ドライブ・マイ・カー」が賞を獲りまくってます。

 

2021年7月の第74回カンヌ国際映画祭脚本賞を受賞。

第56回全米批評家協会賞で作品賞、主演男優賞(西島秀俊)、監督賞(『偶然と想像』も含めた受賞)、脚本賞の主要4部門を受賞。

第79回ゴールデン・グローブ賞で非英語映画部門を受賞。

ただ、13日発表の第28回全米俳優組合賞にはノミネートはされず、第94回アカデミー賞作品賞のノミネートは厳しいかも…とのこと。

最後の一席

去年、観に行けるタイミングを逃し、後悔してたんですが、海外での賞を獲っているのもあって、年が明けてから映画館で再上映するところがちらほら出ることを知りました。

 

私の住む街でもひとつ、上映館を見つけ、火曜日の11日に行ってきました。

 

しかし、前日にゴールデングローブ賞受賞のニュースがひっきりなしに流れていたこともあってか、既に長い列が。どうも前もって券を手にしてる人ばかりらしく、もう売り切れとのこと。小さいミニシアター系の古い映画館で、70席くらいしかないみたい。

 

なんか諦められなくてウロウロしていたら常連らしき(?)おじいさんが入れないか?と聞いてる。私もその機に乗じて聞いてみたところ、なんとか一席なら…と入れた。後ろにやってきたカップルは断られてたから、ほんとラッキー。

 

狭い狭い映画館。人がぎっしり入っている中の左端のいちばんまえ。補助席を開いて腰を下ろしたところ、予告編など一切なく、映画が始まった。

 

美しい

クレジットまでの数十分。とにかく美しさに見惚れました。家福音(霧島れいか)の背中と窓から見える風景。明るすぎず暗すぎない照明。

 

質感がものすごい。最初から心を掴まれましたね…

 

それから家福悠介(西島秀俊)の乗る車、SAAB900ターボの古いけれどスタイリッシュな曲線、上空から撮られた高速道路を走る姿の美しさ。最後までこの車の存在感が半端ない。

言葉がないです。

 

感じた感情をないものにする

急逝した音(おと)がその夜、何を悠介に言おうとしていたのか。

 

彼女の情事を見てしまった時に生まれた感情にフタをし、表向き何も問題ないように振る舞う悠介。

 

音に何も聞けず、彼女が何かを伝えようとした時にも逃げ、立ち向かえなかった彼が、自分の感情に向き合えるようになるきっかけと糸口と、その段階を人との関わりと自分との対話でもって見せる映画。

僕は正しく傷つくべきだった。本当をやり過ごしてしまった。見ないふりを続けた。

悠介のこの台詞に映画のエッセンスが凝縮されているんだと思う。

 

この心情に行きつくまでの彼の日々。瀬戸内海の風景と「ワーニャ伯父さん」の練習、新しく出会った人々との交流、外国語、手話。ひとつひとつの要素の成り立ちと組み合わせ方に唸りました。

 

誰かを失くしてからじゃないと到達できない場所って多々あること。人の生き死には不可逆だから。命は取り返しがつかないから。取り返しがつかない事態になってからじゃないと、学べない愚かな私たち。

戯曲の重層性

ゴドーを待ちながら」「ワーニャ伯父さん」の戯曲の台詞をオーバーラップさせながら、映像とおはなしを重層的に緻密に見せてきます。

 

特に、「ワーニャ伯父さん」の台詞を、悠介の練習用に音が録音していて、それを車中で流す、というのがすごかった… 誰かが居なくなっても、その人が残した声が残っていて、それを再生することで残された者の中に生き続ける感じ。

 

肉体の消失があって、その人に会えないことで、よりその人の存在が強固になる、そんな感じ。

 

そしてその音の声を繰り返し繰り返し聞くことで悠介は自分の気持ちに向き合わざるを得なくなる、とても苦しいけれどそうやって「正しく傷つく」ことへ誘う。

もう音に直接聞くことは叶わないから。自分がフタした感情は自分でなんとかしないといけないから。それを戯曲の台詞に重ねてくる。はぁ、苦しい。

 

村上春樹の存在

私が大学生の時にちょうど「ノルウェイの森」が発売され、そこからずっと読んできたのだけれど、「1Q84」の中途で挫折してしまって以来、読んでいません。

 

だから、この映画の原作も未読。でも、村上春樹の要素が感じられるところが結構ありました。

 

ヤツメウナギ。セックスの後に音が話していた「山賀という同級生の家に毎日のように忍び込む女子高生」。

 

ものすごく村上春樹。セックスの後にこういう話をする、というエピソード自体がものすごく村上春樹

 

村上春樹に関しては、こちらの対談がとっても面白かったので是非読んでみてください。私は村上春樹が好きでしょうがなかった時期がかなりあって、でもそれがだんだんと変わり、まだはっきりと自分の気持ちがクリアになっていません。

https://wezz-y.com/archives/93896

ハン:『ドライブ・マイ・カー』は映画として構造的によく出来ているし、評価されているのもよくわかります。私も瀬戸内海をドライブするシーンはものすごく好きで、あそこだけで泣きそうになるくらいでした。でも、全体としてはうーん、というところも多くて……。なんというか、冒頭からもそうなんですが、まずはセックスを話のフックにするのは古くね?という。原作が村上春樹だから仕方ないのかもしれないけど。

いきなりこの文章に笑ってしまいました。「古くね?」一刀両断です。

 

それから、ハンさんが、子供が死んだエピソードは要らなくないか?って言ってます。それは私も思いました。でも。

 

ハンさんが言っている、妻は子どもが死なないと浮気できないのか??っていう論点とはまた違って、悠介が出会うドライバーのみさき(三浦透子)が死んだ子供と同い年っていうことが大きな理由な気がします。

 

みさきという人物への心理的距離を一歩縮めるのが、自分の亡くなった子供と同じ年、ということなんじゃないかな。

 

悠介とみさきの共鳴

喪失感の共有というのは、物語のなかでよく出てくる要素だと思うのですが、私が思い出したのは、いくえみ綾潔く柔く」と坂元裕二脚本ドラマ「それでも、生きてゆくでした。

 

前者のマンガでは、主人公2人がそれぞれ失ったもので損なわれていた感情の再生が丁寧に描かれていました。後者のドラマは、殺害された妹の兄と、犯人の妹という関係の主人公がまさに「それでも生きてゆく」話でした。

 

悠介とみさき。2人が車のルーフからタバコを持つ手を出したシーン。この2人の関係性を表すのにこれ以上ないパーフェクトな表現でした。だから、上の記事にも書かれているけれど、ラストの抱擁は確かに要らないと思うんですよね。

 

恋愛感情を持ちえない2人でいてほしい。同士のような。でも、あの抱擁を見てたら、この後恋愛感情を持ってしまうのか????って考えが浮かんできてしまってへんに危惧してしまいましたよ。

生きていく

この2人は自分達の感情を共鳴させることで自分に向かい合い、この先「生きていく」。

「ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通していきましょうね」「そして、やがてその時が来たら、おとなしく死んで行きましょう」

最後の劇中劇の「ワーニャ伯父さん」のラスト。

 

圧巻でした。

 

それもこの台詞は手話で発せられたものだからず~~~っと無音。

 

実は私は先週病気が見つかってしまって、手術は避けられないってことがわかったばかりだったんです。

 

すぐに死ぬことはないだろうけど、やっぱりショックで… まだまだ検査もしないといけないし、すぐにその結果が出るわけじゃないし、ものすごく宙ぶらりんな気持ちで、どこにも持って行き場がなくて、この映画に出逢ったわけです。

 

「じっと生き通していきましょうね。そして、やがてその時が来たら、おとなしく死んで行きましょう」

まさに、これだ、と。

 

私に降りかかってきたことはどうしようもなくて痛い思いもするだろうしつらい思いもするだろうけれど、なんとか生きてのびて、その時が来たらおとなしく死んでいこう。

 

最後、涙が止まらなかったです。

 

このタイミングで映画館の最後の一席に座れて良かった… 映画館に入る前と後、違う自分を見つけることは多々あるけれど、今回も。ありがたいです。

 

この映画製作にかかわった全てのスタッフに感謝します。

 

それでは。

あじさい