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コロナ禍の日々で考えること

コロナの拡大が止まりませんね。

落胆の日々

コロナ前コロナ後。なかなか戻ってこないコロナ前の日常。

 

まん延防止なんちゃらが出ようが、人の動きは減らないし、感染者数も減らない。

 

外に出ない、人に会わない、どこかに旅行しない、自分たちが普通にしていた生活をギリギリまで抑えることへのストレスが、感染することへの恐怖や病気になる可能性の自覚を上回ってしまったんだと思う。日常性バイアスというものも働いているかもしれない。

 

オリンピックの聖火リレーはするのに自分たちの生活の規制なんてされてたまるか、という積極的反抗もあれば、高齢者へのワクチン接種よりも選手を優先するといった政府の非道ぶりへの前から燻っていた不満が気づかないうちに爆発してしまってるのが現状かもしれない。

 

合理的で信頼に足る政府であれば、言う事を聞こうという気が起きなくもないけれど、オリンピックをしようかという国のワクチン接種率の余りの低さや一度決めたことを止めることはできないその行動に、八甲田山の悲劇や戦時、負けることが濃厚だったにも関わらず撤退ができずに原爆を2回も落とされた過去の日本の姿に重なり過ぎてもう落胆するしかない日々。

 

日々の暮らし

4年前の天声人語。卒業式にからんで、作家カート・ヴォネガットの卒業式講演集「これで駄目なら」について言及されていました。

 

偉大な勝利でなく、日々の暮らしにあるささやかで素晴らしい瞬間に、気付くことが大事だと彼は説く。木陰でレモネードを飲むとき。パンの焼ける匂いがするとき。魚釣り。漏れ聞こえる音楽に耳を澄ますとき。   天声人語2017年3月27日

 

実際のヴォネガットの文章はこうです。

さて、叔父のアレックスは今天国にいる。彼が人類について発見した不快な点の一つは、自分が幸せであることに気づかないことだ。彼自身はというと、幸せなときにそれに気づくことができるようにと全力を尽くしていた。夏の日、わたしたちは林檎の樹の木陰でレモネードを飲んでいた。叔父のアレックスは会話を中断してこう訊いた。「これで駄目なら、どうしろって?」
そう、君たちにも残りの人生をそういう風に過ごしてもらいたい。物事がうまく、きちんと進んでいるときには、ちょっと立ち止まってみて欲しい。そして大声で言ってみるんだ。「これで駄目なら、どうしろって?」   これで駄目なら『If This Isn’t Nice, What Is?』

卒業する人も、した人も、まだの人も 作家ヴォネガットによる“人生の役に立つ”講演集 | ダ・ヴィンチニュース

 

「きちんとうまく進んでいるとき」どころか、今のこのコロナ禍が日常になってしまった2021年の私たちはどうすれば安寧に暮らすことができるのか。感染せずに日々を楽しく過ごすことができるのか。

 

なんの解決にもならないのは承知で。

 

自分が楽しい、と思える瞬間が一日のうちで一度でもあること。

誰かの役に立っている、と感じること。

自分が承認されていると感じる事。

何かを食べて/飲んで美味しいと感じる事。

そばに居るひとを大事にする事。

 

朝一番に珈琲を淹れて香りがする瞬間。公園を歩いていて、緑がきれいだなと感じる瞬間。家の中の掃除をし片付けた時のすっきりする瞬間。ビールを開ける瞬間。

 

「偉大な勝利」なんてものは絵物語になってしまった2021に。

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お越し頂きありがとうございました。

あじさい