レビー小体型認知症だった母の眼科入院2<2018年>
昨日の続きを。
入院1日目
入院手続きをし、検診も終わり、その日はやることはなく。夕飯前に私と父は家に戻りました。
夜中のトイレはナースコールをするよう看護師さんに言われたので念を押しました。不安はありつつなんとかなるだろうと家に戻りました。
入院2日目
朝早く目覚めました。母は夜中のトイレどうしたんだろうと気になってしょうがなかったので朝8時くらいに病院へ。
車椅子に座って朝食を食べているところでした。
お箸を持って食べるのが辛そうで、表情もあまり動かず、あれ?なんかおかしいな、と思いました。食事もそれほど進まず、トイレに行くと言い出しました。そうしたら。
立ち上がれないのです。歩けないのです。初めてトイレに一緒に入りました。昨日までひとりでトイレに入って用を足していたのに、自分の力で下着を下ろせないのです。
手伝った後、外に出ました。終わった頃を見計らってノックをして様子を見ていたらやはり自分では手が動かないのです。
歩くことすら覚束なくなっていました。私に手を引かれてベッドに戻ってきました。たった10歩くらいの距離なのに。
あまりのショックで頭が真っ白になりました。
どういうことだろう…
朝ちょっとだけ様子を見て、午後の手術までまた家に戻ろうと思っていたんですがとんでもない。すぐに父に連絡をしました。
夜中のトイレも看護師さんを呼んで4回も行ったと言っていました。相当な緊張もあり全く眠れてない様子。
手術までまだ5時間もある。
長い… 時間が経つのがとても長かった。その間に昼食が来て、また椅子に乗せるのに時間がかかり、ご飯じゃなくうどんで、さらに食べにくく、うどんを何回も落とし、それでも手助けを借りたくはないという雰囲気で、それほど食べずに終えました。
私は、このままその日も病院に入院させてちゃダメだと強く思いました。
看護師さんに聞いてみたこと
手術を終えた後、病院に泊まらずに家に戻ることは可能かと看護師に聞いてみました。白内障の手術は日帰りでも可能な病院もあることだし、事情を説明してどうしても連れて帰ろうと思いました。
そうしたら、退院という形ではなくて外出なら大丈夫とのことでした。次の日の朝の検診の時間に病院に来さえすればいいと。
はぁ… 良かった…
もう絶対一人では病院に置いておけないと私も必死でした。
手術
手術自体は、30分くらいの短い時間で終わりました。右目に眼帯をして手術室から出てきた母はちょっと安堵したような、まだ緊張の中にいるような複雑な表情をしていました。
その日はシャワーはだめ、うつ伏せで寝ないように、くらいの注意で普段の生活で大丈夫とのことで、今日はもう家に帰れるようお願いしたから帰ろうね、と母に言い、よく状況が飲み込めていないようでしたが家に戻りました。
家にて
身体は思うように動かないにしても、朝見た時よりはマシでした。とにかくあの病院の、窓もなく外の見えない、小さい息の詰まる四角の空間に母を置いていたくなかった。私も居たくなかった。
家がいい。テレビ(目が見えないにしても) があっていつもの椅子に座り、自分の好きなものを食べ、自分の布団で眠る。そんな普通の日常のありがたさが滲みました。
退院日
次の日の朝8時半に病院に行きました。手術後のチェックがあり、経過良好とのことで眼帯が外されました。
母のちょっとだけホッとした表情が見えました。「明るい」と言っていました。そして前日手術をした5、6人が一斉に集められてこの先注意しなければいけない話がありました。
それまで私の手を掴んで歩いていた母が、突然歩き出し、皆さんのいるパイプ椅子のところへ行き、スタッと座った時、私も父も目が点になりました。
え???
立ち上がるのも座るのもあれだけ時間がかかり、ゆっくりだったのに?この2日間の身体の動きの悪化はなんだった??
痛恨のミス
目がクリアに見えるようになるには1週間ほど、視力が固定するのは1ヶ月かかるそうです。来週左目の手術があるので12月半ばになればしっかりと見えるようになるんだろうと思います。
私はこの手術に関して、本当に痛恨のミスをしたと思っています。入院した次の日の朝、母の姿を見て、本当に後悔したんです。今でも後悔しています。
彼女の性格と考え方、そして患っている病気のことを考えたら、日帰りで両目を一気に手術してしまうのが最適解だったんだと。
総合病院で手術させたいがために、何ヶ月も待たなくていけなかった。待っている日々が彼女にとってどれだけ不安で苦痛だったか。手術のことを心配していくうちに認知症関連の症状が進行してしまうなんて。
母がレビー小体型認知症にかかってしまったとっかかりは、父が癌かもしれないという不安要素でした。父の検査が続いて何ヶ月も結果がわからない日々でどんどん病んでいきました。そして実際癌だとわかって更に落ち込みました。
それを知っていながらたかを括っていました。
不安をいちいち口にする人ならば。思っていることをさらけ出す人ならば。
そうじゃないからこそ、内に溜めてしまうストレスが内側からゆっくり心と体を壊してしまったのだと思いました。そして病院にひとりになって、トイレも一人で行けない、ご飯も食べれない、一人で椅子にも座れない、出来ないことだらけでの落ち込みは想像できます。
大事なこと
退院した日は私がご飯作りをしました。これまでずっと、実家に帰ると母が作ってくれて私は食べるだけだったんですが、初めてくらい??に私が全部作りました。
美味しいって食べてくれました。そうしたら、終わった後、自分から立ち上がって台所へ行くんです。お皿洗いをしていました。
ちょっと泣きました。一人で歩くのも覚束なかったのに、お皿を洗っている母の後ろ姿を見たら私自身の数日の緊張が溶けていくようでした。
トイレにひとりで行く。ひとりでご飯を食べる。歩く。座る。誰の助けも借りずに動くことが人間の尊厳を守っているのだとひしひしと感じた数日間でした。
それができなくなると、呆けて行くしか無いんです。だって悲しすぎます。自分ができないなんて許せないしありえないしそうなったらどこかの意識の、脳の、スイッチをパチンと切ってしまわなければどうやって過ごしたらいいんだろうって、母の様子を見て自分自身にトレースしてみたらとても辛くて辛くて…
そして手術後1週間、なんとか自力で歩いてトイレにも行けて風呂も入れているようです。ご飯作りは難しいですが皿洗いもしているとのこと。毎日のように電話で話をしています。
来週の手術のため、明日私は実家に帰ります。妹は働いているのでずっとは居れませんが週末に来るとのことです。
また手術ということで不安になっていると思います。大丈夫という言葉が通じるのか、どんな声かけが母を不安から救ってあげられるのかあげられないのか。今度は、入院はしません。手続き上はするけれども2日とも家に帰ります。手術2時間前に病院に来ればいいとのことです。
また美味しいご飯を作って食べましょう。
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ここまでが2018年に書いたものです。
この眼科の手術を契機に、母はどんどん弱っていきました。目が良く見えるようにと、良かれと思って決めた手術は結果的に認知症を悪化させただけでした。
悔やんでも悔やみきれなくて、今でも残っているのはこの時の後悔です。
何時も思い出す、大河ドラマ「おんな城主直虎」の和尚のセリフをまた置いておきます。
南渓和尚「己を責めたとて死んだ者は返らぬ。じゃが、生きておる者は死んだ者を己の中で生かす事ができる。例えば、偲ぶ事で、例えば倣う事で、時には倣わぬ事で。他にはないかのぅ」
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お越し下さりありがとうございました。
あじさい