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「82年生まれ、キム・ジヨン」<ネタバレ感想>自分や母のことを振り返ってしまう映画

かなり前から話題になっていて、原作も評判の本作。原作は読んでいません。映画のみ鑑賞の感想です。

http://klockworx-asia.com/kimjiyoung1982/

 

こないだの「窮鼠」を観たときに思ったんですが、原作を知っているのと知らないのとでは映画の感想ってかなり違ったものになってしまいます。どうしても原作と比較してしまって、ここが違うあそこが、っていう批判じみていってしまう傾向が私にはあるので…

 

なんの背景も知識も持たずに映画を観に行くのが私の理想です。予告編すらノイズになってしまうこともあるので… そういう意味で言えば、この映画はまっさらな状態で観れて良かった。そういう意味でも初日に行くとTwitterで余計な情報が目に入らずに済む。

 

たぶん一般的な家庭

私は韓国の国の事情や社会についての知識があまりないのでよくわからない部分が多いのですが、この主人公のキムジヨンは、それほど大きくはないけれど綺麗で新しいマンションに住んでいたり、夫が企業の事務職だったりしているのを見てると、「パラサイト」に出てくる富裕層と貧困層の家族の中間あたりになるのかな…と。

 

疲れている妻を見て、夫が正月の帰省をやめようかと提案する時に、文句を言われるのは私なんだから、とジヨンが言うのを見て、ああ、日本と同じやん…

 

アジア特有のものがあるのかもしれない、ないのかもしれない。でも、この義家族との関係性のめんどくささ、義母の鬱陶しさ、嫁の事は二の次、すべてにおいて大切なのは自分の息子(子供)のみ。っていうのは日本でもあるから、ジヨンが義家族の目の前で自分の母に憑依して気持ちを暴露してしまうっていうの、義家族との関係に悩んでいる人はどきどきしながらも拍手喝采したんじゃないかな?

性差からの差別

私は姑とそれほどバトルしたこともないし、優しい人だったから関係も悪くならなかったけれど、思い出したことがある。

 

私の家人の祖父母が元気だったころ。お正月やお盆に義祖父母家へ行くと、多くの親戚が居て、女性たちは台所、男性たちは座敷でずっと座ってる。ひたすら女性はご飯を用意し給仕しお皿を洗う。男性は食べて飲む。ジヨンと違うのは、女性たちでひと塊で動いていたからひとり孤独ってことはなかったけれど。

 

そんな風景が私の周りにも当たり前にあった。

 

私の義父も折に触れて、私の娘たちがご飯の用意を手伝っているのを見て「女の子はやっぱりいいなぁ」と言う。性別によるあからさまな差別がある、とは言わないけれど、性差による考え方の違いをとてもよく感じる。

 

ジヨンの父が、襲われそうになった高校生のジヨンに、短いスカートはやめろ、という場面がある。何かされたら自分が悪いんだと諭す。これまさに父や義父の考え方とおんなじ!!!!!!!と心の中で叫びました。

 

襲われるのは、そういう洋服を着てたから、遅い時間に歩いていたから。いや違うでしょ。悪いのは犯行する方なのに、やられる女の方が悪いという考え方。それに対して何も言えないジヨン。私もそうだ。

 

女だから。の枷

ジヨンの母が、男兄弟を大学に行かせるために自分は進学を諦め家族のために働いていたこと。ジヨンの父が唯一の男の子のジソクばかりをかわいがること。

 

私の母のことを思い出してしまいました。母は九州生まれ。5人きょうだいだったのだけれど、彼女はかなり成績も良く進学校に行ったにも拘らず、女というだけで、大学に行かなくていいと言われ行きませんでした。長男の兄は東京の大学に行かせてもらったのに… そういう時代でした。というか、今だって土地によって、人によってはそういう考え方残っている気がします。

 

私の友人でも、女の子だからという理由で、4年制大学じゃなく短大でいい、と親に言われ未だに悔やんでいる人もいます。

 

理解があるように見える夫ですら

デヒョン(ジヨンの夫)は、様子がおかしくなっていくジヨンを傍で見て、性差のようなものから逃れようと育休を取ってジヨンの再就職を応援しようとする。それでも彼の言葉の端々に、彼の考え方が微かに(でも重い)現れてしまって、ジヨンを追い詰めてる。そしてそれに彼は気付いていない。

 

ジヨンがパン屋でアルバイトをしようかな、と言ったときにも「したい仕事でなければする必要はないじゃないか」と気持ちに寄り添った言葉をかけたのに、その後、自分の稼ぎだけでは不満なのか、みたいなことを言ってしまっている。

 

傷ついたジヨンが、夜中にお酒を飲もうとしているのを見て、お前はお酒が飲めないんだからやめておけ、というような言葉を言う。「飲めない」と決めつけて、「やめろ」と命令する。

 

育休にしたって、母親(ジヨンの姑)から鬼のような反対を受けたって、それに対して何か反論をすることはない。韓国の親子関係事情についてはよくわからないから何とも言えないけれど、儒教の教えから親孝行がかなり重要らしいから、どうにもならないんだろうな、とは思うけれども…

 

ミギョン(ジヨンの母)が、怒っている姑から電話を受け、それに対して反論するのを見れたのが救いだった… 自分の夫(ジヨンの父)への反論もあった。彼女自身が抱えて我慢してきた息苦しさを夫へ爆発させたところはこの映画のある意味クライマックスだったように思う。

 

同じような思いを娘にさせたくない。深い母の愛情。慈愛。この女優さんの演技に引き込まれてしまった。私は娘でもあり母でもあるから、ジヨンの視線でも母の視線でも同時に感情が揺さぶられてしまった。

 

自分で自分を救う

ジヨンは自分が記憶をなくしているときの事情を夫から聞き、ようやく精神科の医師と話をすることになる。医師が言うように、病院に来れたことで半分は成功だというのは本当にそうだと思った。

 

ラストの珈琲店で、周りのひとたちの心無い言動へ反論するシーン。それまで、生まれてからずっと、女であることで理不尽な扱いを親や周りから受けてきたのにもかかわらず、言葉にしてこなかった/できなかったジヨンが、ようやく思っていることを出せたところ。

 

姉のウニョンのように、子供のころから言いたいことを言えてた人と違って、素直で何事も受け入れてきたジヨンが、子供を産んだことでそれまでの滓の様に溜まってきたものが彼女を病ませたんだろうと思う。でも、思ったことを言えれば、ちょっとはマシになる。最後、医師に、その時のことを「悪くない」と笑ったジヨンの笑顔が見れてよかった。溜まったものがあのシーンで出せたことで自分を救ったんだと。

 

この映画が投げかけたもの

でも。

 

ジヨンが自分で自分を変えていく、それだけで良いわけではない。夫だって、姑だって、父親だって変わっていかなきゃならない。でも、この映画はそこまで言及しているわけではない。

 

家族の像はひとそれぞれだし、あの姑や父親だけを責めてみたってしょうがない。長く培われた社会の土壌だってある。ステレオタイプ化しただけのキャラクターなのかもしれない。それでも、やっぱり社会で、みんなで、変わっていかなければいけないんだ、と言うメッセージを私は受け取りました。

 

この映画の中で失礼な言動をする人たち、潜在的に差別をしている人たち、それは私たち自身かもしれないし、自分の周りかもしれない。

 

女だから、男だから、こうしなきゃ、こうならなきゃ、と考えるのをやめてみよう。

 

ジヨンは、自分の思いを文章にしたものが雑誌に載っていて、幸せそうな笑顔で映画は締めくくられる。

 

現実はそう簡単ではない。私はいつまでもトンネルの中で息苦しさを感じ続けるかもしれない。それでも、この映画を観て、ひととき、自分の過去、母親の過去、いろんな思いがのぼってきたので、それをフィルターにかけて時間をかけて濾していこうと思います。

 

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お越しいただきありがとうございました。

あじさい