MENU

「熱帯樹」その清冽さに驚愕 <ネタバレあり>

シアタートラムで熱帯樹を観てきました。

あらすじ 1959年秋の日の午後から深夜にかけて。資産家の恵三郎は、己の財産を守ることにしか関心がなく、妻・律子を自分の人形のように支配している。律子は夫の前では従順だが、実は莫大な財産を狙い、息子の勇に夫を殺させることを企んでいた。その計画を知った娘の郁子は、愛する兄に母を殺させようとするが……。 いびつな愛に執着する律子と郁子、権力者の父を憎みながら母と妹に翻弄される勇、地位や名誉を手に入れはしたが息子と対立し妻の不貞を疑わぬ恵三郎、そしてそこに同居する恵三郎の従妹で風変わりな信子、それぞれの思いが交錯し……。

東京に行けるタイミングで前日の当日券チャレンジ、2日目に電話が繋がりとてもラッキーな観劇。カメラが入っているためか立ち見席はなし、座れて感謝しかないです。

熱帯樹。三島由紀夫。それだけで想像されるもの。とは言っても、私は三島由紀夫をそれほど読んでいないのです。金閣寺すら読んでいません。学生の時に太宰治夏目漱石など日本文学のあたりをザーッと読んでいたのですが三島由紀夫はその衝撃的な死が邪魔をしていたのと濃すぎる世界にお腹いっぱいになってしまうのとで避けてきたんです。

でも、今が三島を読み始めるタイミングなのかもしれません。Twitterでお知り合いになった麒麟さんが熱帯樹についてブログ記事にされていたのを目にして、読み終えた時には、絶対熱帯樹を観る、この目で観る、と強く決心してました。

もしかしてその記事を読まなければ観ることはなかったかもしれない、と思うと、人もお芝居も縁なのだなぁと。

http://namikawani.hatenablog.com/entry/2019/02/13/161205?_ga=2.58200744.34342074.1552100903-134101170.1547015577

こちらの記事です。

これまでの熱帯樹上演記録が事細かにまとめてあります。過去の上演に想いを馳せながら、平成最後の年に生み出される今の熱帯樹がものすごくものすごく観たくなりました。本当にありがとうと言いたいです!!

さて。残念ながら、熱帯樹の文庫は絶版になっており、図書館で借りるしかないのですが、うちの近くの区図書館では6人待ち。県図書館も2人待ち。観劇前に原作を読むことは叶いませんでした。

チャイメリカは何も知識を入れずに観たかったのですが、これに関しては内容を知った上でほんとは観たかった、っていうわがままな気持ちが湧き上がり。

でもしょうがない、ハコが狭くてプラチナチケットだったので観れるだけで御の字でした。

舞台の美しさ

シアタートラムというのはほんとに狭いですね。びっくりしました。舞台が近い。席が繋がっていて、昔ながらの芝居小屋っていう感じ。外見は丁寧にデザインされていておしゃれです。

舞台上には山の稜線のような白い線。おとぎ話に出てくるような華奢で金属製のベッド、側に鳥籠。

一目で世界に引き込まれました。前から7列め、下手。チャイメリカ の二回目が真ん中だったんですが、私は真ん中より端から観るのが好きだとわかったので自分にとってはこれ以上望みようのない席。

舞台装置が観音開きのようになっていて、演者さんが自ら動かして舞台が郁子の部屋になったり家の外の庭になったりするんです。このアイデア素晴らしかった。自分たちで動かして作り上げていく感じがしっくり来て、登場人物が少なくて家の中という閉じた空間、そこにある愛、憎しみ、懐疑、逡巡、さまざま入り混じった感情をも動かしながら作り上げてく感じ。

想起される物語

三島由紀夫は「熱帯樹の成り立ち」というタイトルでこの戯曲の下敷きとなったフランスの事件のことなどを書いています。その文章そのまま今回の舞台のパンフレットに印刷されています。

そこで書かれていたのは、ギリシア悲劇「オレステイア」への言及でした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/熱帯樹_(戯曲)

かういふことは、人間性からいつて当然起りうる事件ではあるが、実際に起ることはめつたにない。事件は、ギリシア劇の中では、かつてアイスキュロスの『オレステイア』三部作において、アガメムノンクリュタイメストラオレステスエレクトラ、の一家族の間に起つたのであつたが、それと同じことが現実に、現在ただ今のヨーロッパで起つたといふことは注目に値ひする。この事実はもはや、こんな事件のあらゆる場所あらゆる時における再現の可能性を実証するものだからだ。 — 三島由紀夫「『熱帯樹』の成り立ち」[10]

フランスで起きた事件に待たずとも、ギリシア悲劇にその素があり、戯曲そのものもその台詞の古典的で大仰で細工の施された言葉にも片鱗を見ることができる。

そして豊穣に生み出される言葉の節々にシェイクスピアを思い出さずにはいられなかったです。

特に、ある場面で、律子が勇にあることを唆すところ。マクベス夫人がマクベスに強い調子で殺人教唆する場面を想起しました。

そしてもう一人思い出したのはハムレット。(1幕2場)

Frailty, thy name is woman. 弱きもの、汝の名は女なり。

しかしマクベス夫人も律子も決して弱くないです。郁子は病人でありながら弱いどころか強い。勇より遥かに強い。

そんな彼女たちの強さを感じながら、私はシェイクスピアに出てくる女たちとの類似点に唸りました。

欲望と清冽さの両立

家族でありながら愛憎の忙しい4人。愛することと憎しみとは表裏一体だと気づく。人格を持たない人形としての存在を妻に求める恵三郎、それを甘んじて長いこと過ごしてきたことでそこから逃れる術が夫を亡きものにすることを考えてしまうくらい精神の天秤が狂ってきている律子。

小さい頃から仲良い兄妹として過ごしてきた郁子と勇の近親相姦の愛は禁忌なものとしてではなく、長く続けてきた日常でナチュラルで、そこにいるふたりが可憐で美しいという要素があるにしても、万葉の時代に血の繋がったきょうだいが婚姻関係を結んでいた事を鑑みればタブーでもなんでもない、ただ、そこにお互いが居て、お互いが全てだった、母性や父性を表出することのない同じ家に住んでいながら家族という名前では繋がれていない人間関係の究極の形だと思いました。

同じ血を濃く持っているからこその愛というのはあると思うし、病気だけれども強く凛々しい郁子に引きずられ、母親である律子からも揺さぶられ、苦悩する勇が美しい、美しすぎて郁子が精神的な愛以上のものを持ってしまうのも超肯けます。

透明な勇。時には弱く、時に追い込まれ歪んだ顔すら彫刻のようでそこに美を感じずにはいられない。そこに静謐な激情という相反するパトスを見せられ、こちらを歓喜に包む。

林遣都の持つ全てが勇。

実の息子に夫殺しを唆す律子の造型はもっと肉感的でもっと淫らな女性を想像していたのです。鬱屈したものを抱えた操り人形から女に人間になろうともがく律子の清冽さには観ていて一番びっくりしたことでした。

悪女そのものだと思い込んでいた私はカウンターパンチを食らわされました。それがもちろん演者の持つピュアさに因っていることもあるにしても、そういう演出をしたのだ、これはわざとなのだ、と思いました。観劇後にパンフレットを読んで、それがあたっていることを知りました。

恵三郎にしても同じで、欲望むき出しのいけ好かない中年を過ぎた男かと思っていたら、ひょうきんで嫌みもなくて、なんだか哀れに見えました。これも演者さんの中から出てくる空気がそうなのでしょう。

家族という幻想

家族として一つ屋根の下に暮らしていながら、誰もその役割を果たさない。親が親として子供を庇護し導き、子供は親の愛情を一心に受けて成長していく、という当たり前(だと思われる)がここにはない。

この4人が果たして異常なのだろうか。精神が軋んでいるのだろうか。

ここ最近の日本において、殺人事件のうち親族間のものが60%を超えているという。肉親だからこそ生まれる感情があり、そこを踏みとどまれない人間の弱さを感じます。

見た目は幸せそうでも、心に爆弾を抱えて暮らす人だって多いはずです。私もこないだ実家の親に心底落胆したことがありました。近いからこそ、繋がっていると信じているからこそ、そこから生まれる負の感情の底知れなさは誰にも推し量ることができないことだってあるはず。

この物語は決して本の中だけの御伽話ではなく、現代を生きる私たちにも内省させるものです。家族という言葉が上っ面だけじゃなく本当に繋がっているのか。そこに見ているのは幻想ではあるまいか。

郁子と勇は悲劇的な結末へのステップを歓喜の中ふたり手を繋いで向かって行きます。残された親ふたりには真実は見えてきません。都合の良い解釈のまま変わろうとしないまま、終幕を迎えます。

そこに絶望しかないのか。

悲劇と言われるものに、そこに、少しでも望みを観たいと思ってしまう私は頭に花園を持っているだけなのかもしれません。でも、死というものをどう解釈するのか、ふたりの選択が乙女チックだと冷笑してしまうのも悲劇に酔っているだけだと決めつけてしまうのも違うように思います。

あの時、ベッドの上で手を取り合い、飛び跳ね、自転車で海を走っていくことのワクワク感、ふたりが死を選ぶわけではなくふたりだけの世界を、それが死なのだとしても、ふたりにとってはその死を生きる、というような感覚だったのかもしれないと考えて自分を慰めたりしています。

そして、この家族への客観的視点を持つ信子役の栗田桃子。彼女が熱帯樹の屋台骨を支えていたと言っても過言ではないと思っています。

あの狂った家族の面々だけを見ていると、それがいつのまにか「普通」に見えてくるんです。そういう世界のそういう人々。

でも、信子の存在で、そこにメスを入れてくる。こちら側からあちら側へ引きずり込まれそうな勢いを削いでくれるというか。

かといって、信子が「善」なる存在であるかどうか、はわからないのである。そこに見える「仮面」を感じて彼女がほんとうは何を考えているのか煙に巻かれてしまう、このざわざわ感、がツボ。

その役の難しさは想像に難くないです。力を持つ役者でなければ信子を演じることができない。ブラボー!!!

https://tokyo.whatsin.jp/403133

横川良明氏が熱のこもったレビューを書かれてますね。

 

チャイメリカ」についても書きました。

https://yutaka-sukkiri.com/2019/02/27/chimerica0213/

*************

お越し頂きありがとうございました。

あじさい