「カルテット」視聴率ふるわない原因はなんだろう
カルテット、どうですか。観てますか。観てませんか。私の最近の火曜日は朝からわさわさしてます。カルテットあるなぁって思いながら一日過ごしてます。笑
悲喜こもごも視聴率
こないだ3話が放送されたんですが、先週から1.8ポイント視聴率が落ちて、7.8%だったそうです。
7.8%。前作の「逃げるが恥だが役に立つ」の視聴率からしたら全くもうお話にならないくらい低調…
録画機能が発達した最近のテレビを見ていると、視聴率なんて今やあてにならないんじゃないの、とずっと思っています。それでも、テレビ番組に広告を出す企業からしたら、視聴率というのは指標として唯一無二の大事なものだろうし、それに左右されるテレビ局のことも想像できます。
私は録画してみることが多いし、残念ながら録画をするとCMは飛ばしてしまうので、どんな企業が広告を出しているのかまであまり考えたことがないのが現実だったりもします… そういう方も多いんじゃないかなと。
理由のひとつは
そんな視聴率に一喜一憂するのはどうかとは思うのですが、やはり視聴者としてもその数字というのが気になったりもするんです。なぜ「逃げ恥」は数字がとれて、「カルテット」は取れていないのか。
理由はふたつあるように思います
ひとつ。カルテットは、逃げ恥のようにわかりやすくはないということです。舞台演劇のような会話が延々と続く。使われている言葉、使われている言葉の内包するもの、そういうことに全神経を傾けていないと、意味がわからなくなります。
また、脚本家の生きたその時代を知らないと、小ネタや音楽が理解できず、面白さを感じる事ができません。 ちなみに、脚本家は昭和42年生まれです。
例えば、劇中に、杉山清貴とオメガトライブというグループが歌っていた「ふたりの夏物語」という歌が流れるんですが、その歌は、私の娘のような10代20代とか親世代の70代で知っているひとはなかなか少数ではないかなと。その歌の持つ時代、意味合いがわからないと、その場面の面白さがわからなくて、私の世代であれば見いだせる意味を全くスルーしてしまいつまらないと思ってしまうのではないか。
でも、脚本家はそれをわかってるいるはずで、ある意味、わかるひとだけついてきてくればいいっていう、視聴率なんていうものは無視し、それでも刺さるひとに伝わってほしいと考えているのではないかと思えてきます。相当な覚悟で勝負に出ているんじゃないか。
理由のふたつめ
そういう面白さはわかったとしても、「カルテット」で訴えてくる主題みたいなものに興味を持てないと、観る必要性を感じないというのもあると思います。
じゃあ、主題とはなんでしょう?3話を観た時点で感じたことなので、それが合っているかどうかはわかりませんが、それは、私たちが住む社会が持っている「呪い」に向ける脚本家の考える姿勢、あるいは態度の表顕じゃないだろうか。
呪いというと、「逃げ恥」で、主人公の伯母のつきささる台詞が思い出されます。彼女の年の半分ほどの若い女性から、若さが全てで、年をとることは価値がないと言われた伯母は、その20代の女性に対して「価値がない」と切り捨てたものは、その女性が向かっていく未来でもある、自分にそんな呪いをかけずに、さっさと逃げてしまいなさい、とにこやかに言います。私はその台詞を聞いた時、このドラマに会えてよかったなぁと心から思いました。
「カルテット」3話では、主役のひとりの女性に焦点が当てられています。ひどいことばかりをしてきた父親が死にかけていて、最期くらい会ってあげてもいいんじゃないか、とその女性が迫られます。でも、この作品の中では、血のつながった家族である父親に対して、もう死んでしまうのだから、とか、父親にも理由があったのかもしれないのだから、とか、そんな家族だからこそ許すべき、水に流すべきといった、血のつながりの呪いをばっさりと切り落としました。
家族だって許せないと思ったっていい。死に目に会いたくないと思ったっていい。そんな脚本。こういったお話に突き刺されるか、心をもっていかれるか否か、そんなことで視聴を続けるかどうか左右されるんじゃないかな。
家族に対して持つ葛藤、このお話に共感できなければ、「カルテット」を面白いとは思わないだろうと思うんです。ドラマでそんな重いことまで見たくないよ、と思うひとも多いかもしれません。「逃げ恥」は、気楽に観られるコメディと社会的な問題を扱うシリアスな部分がとてもバランスが良かったんでしょう。でも、この「カルテット」は、コメディ部分はあるけれど、それがわかりにくかったり、結構な毒を含んでいたりでたぶん視聴者を選ぶドラマなんだろうと思うんです。
呪い
世の中にはたくさん呪いがあります。呪いというとぴんとこないかもしれませんが、さきほどの「女性は若さが全て」もそうだし、こうすべき、こうあるべき、という規範のようなものもそうですね。
椎名林檎の書いた、エンディングの歌に、
手放してみたい この両手塞いだ知識 どんなに軽いと感じるだろうか言葉の鎧も呪いも一切合切 脱いで剥いでもう一度僕らが出逢えたら
という歌詞があります。両手を塞いでいる知識、そして言葉の呪い。鎧や呪いを「脱ぎたい」「剥ぎたい」。知らず知らずのうちに身に着けているもの、手にしているものを一切合切取り去りたい。社会で生きていく上での常識だったり空気読むだったり頭でっかちな知識だったり華美で過度な言葉だったり。
そういったものを取り去った後、いかにして立ち向かっていくか。あるいは立ち向かわないのか。決められた規範に違和感や居心地の悪さを感じてしまったときにどう対処するのか。毎日をそつなくなんとなく過ごしていてもどうしても感じてしまう自分と周りとの乖離をどう処理しようか。
別にそんな疑問を持たなかったり、持っていてもひりひりした感覚を否が応でも思い出させるような場面を見るのがいやであれば、このドラマはやはり面白くないものになってしまうのかもしれません。それがいいとか悪いとかではなく。
どこかが損なわれている自分、ここにない何かをどうしても希求してしまう自分。この「カルテット」というドラマは限りなく魅力的で魅惑的で、欠けた部分を満たしてくれるんじゃないか、と期待してのめり込むようにして観てしまいます。
期待&不安
全員が謎を持ち、秘密にしたい過去を持ち、どこかに居場所が欲しくて彷徨っている大人が主人公のドラマ。誰でも30年40年生きていれば、いくつか秘密は持っているはず。墓場までもっていくような秘密だってあるでしょう。
秘密が明かされていきながら、人間関係がどんな変化をみせていくのか、どんな情景が待っているのか、毎週ドキドキしながら、でもぐさっと刺されたらどうしようと不安にもなりながら火曜日を待ちます。 このドラマの場合、ドラマとしての完成度と視聴率そのものが反比例するのかもしれないなぁ…とちょっと思ったりもしています。
*日々の暮らし手帖
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