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直虎へのモヤモヤと考えたことなど ~おんな城主直虎~

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 ここのところなんだか喉に小骨が引っかかっているというか、ちょっとモヤモヤしています。(批判的なことがお嫌な方はスルーでお願いしますね…)

 

私は32話で一度ショックで寝込んでいるし、龍雲丸とのことにもちょろっと(ちょろっとね)言いたいことがあったりもしています。ただ基本的に公式至上なので、そこで作られたものをうんうんと喜びながら、そして悲しみながら拝見しています。

 

前回、成長した虎松、亥之助が登場し、最終章が始まりました。ただ、二人のやり取りなど面白いなぁ!と笑いながらも乗り切れていない自分を発見しています。初めは単に政次の余りにも衝撃的な退場のせいかと思っていたのですが、どうもだんだんと溜まってきたモヤモヤがあるみたいです。それを書いてみようかなと思いました。

 

高瀬のこと

高瀬が現れたときの回がとても好きです。拭き掃除をしていた高瀬が鼻唄を歌いだす。それは直虎と政次が幼いころ慣れ親しんだもので、ふたりは顔を見合わす。亡くなって姿の見えない直親がその鼻唄と共に二人の前に立ち上ってくるようで… という場面が好きで好きで、ふたりの見合わす顔の驚きと共鳴に鳥肌が立ちましたし、その後哀しい顔を見せまいと笑顔を作る直虎とそれを切なそうに見る政次の造形が美しすぎて…

 

愛したひとに子どもがいた… その事実をひとりで耐え忍ぶ直虎と、声もかけず手も差し出さない(出せない)政次の抑えた、でも一番彼女の思いを理解しこころを痛めている政次。姿が見えずともその存在感を見せつける直親。

 

本能的な嗅覚と直虎の気持ちを慮って、高瀬を間者として追い出してしまっても良いのでは、と進言する政次を見た私には、高瀬が間者であってもなくても、その顛末を丁寧に観れるのかなと思ってました。

 

この件は長いこと回収されずにいましたが、37,38回でやはり武田の間者だったことがわかり… ただ高瀬の間者としてのお話の顛末がちょっと消化不良のような気がしています。

 

何故かと言うと、37話で、武田からやってきたと思われる仲間から近藤殿を殺すよう言われ、「しくじれば命はあると思うなよ」とあったのに、結局殺せず、でもその後高瀬には何もお咎めはなく終わってしまって、あれ、これで間者疑惑終了なの…??とぽかんとしてしまったんです。たぶん、信玄の突然死で武田の指揮系統もずたずたになったでしょうから、下っ端の間者(だと思う)のことなど気にかけていられないのが現状だったのかな、と脳内補填していますが…

 

直親政次直虎三人の関係をあぶり出すようなエピソードを期待していたのでちょっと残念… でも、政次の勘がやはり当たっていたという事、高瀬の生い立ちを聞き、直虎との親子の絆が深まったことでよしと思っているところです。

 

 

直虎の言動

直虎は36回の最後で龍雲丸に名前を聞かれたとき、井伊家の当主としての「直虎」を置き、龍と共に生きていく百姓として「とわ」を生きると決めたことで、これまで背負ってきたものをいったん下ろせたんだと思います。

 

お互い大事なものを同時に失ったふたりは、互いにそれぞれ持つ「負い目」「罪の意識」をひとりではなくふたりで生きていくことで乗り越えようとしながらも、37回の龍と直虎との台詞で、すれ違いを感じさせました。

 

龍「あんたがここで百姓やってたって但馬様は生き返るわけじゃねえし」

とわ「然様なこと我が一番よう知っておる」

 

37回

 

政次の死以降、直虎が彼のことを口にするのは非常に少ないです。辞世の歌を見て死をやっと受け入れ「ああ、もうおらぬのでしたね、但馬は。但馬は…もう… 私が… ああ…」 と泣き崩れた時。龍雲丸に、当主をやめてもいいんじゃないかと言われ「 しかし、それでは、それでは政次は何のために死んだのかということになるではないか」と家の再興を迷っている時。隠れ里から手紙が来て「なんじゃ、但馬は生きておったのか…」と呟いた時。(他にもあるかな)

 

私は、33回の直後、直虎が自分の口から政次への思いを語ったり、思い返したりする日を期待していました。政次の死によって直虎が井伊谷の真の当主になっていくのだろうと。でもそれはありませんでした。せめてこうなったことへの反省のようなものがあるのかな…と思っていたのです。なぜなら、以前、虎松と囲碁をしていた政次の台詞がどうも心に残っていたので…

 

政次「何故かような有様になったかおわかりですか。どこが間違いの始まりであったかおわかりですか」

 

25回

 

政次が死をもって井伊谷に残したもの、直虎はそれを一番痛切に感じている筈だと思うのです。政次を槍で刺した時、直虎はそれまで拠り所としてきた「情」に加えて、政次の「理」を獲得したと思うから。

 

「情」で動いてきた直虎が、政次の思いを理解して、彼の「理」でもって槍を突き刺したんではないか。この瞬間、政次本人を自分の中に入れ、非情に見える応酬でもって政次への思いに最大限に応える。

もう不憫な彼はいない  ~33回 おんな城主直虎~ - ゆたかにすっきり暮らす

 

「理」、そして政次が18回で語っていた「戦わぬ道」を直虎が選び、家を再興することではなく、民を死なせず皆が幸せに暮らしていくという、名を捨て実を取った結果が36,37回で表されていて、確かに直虎の中に政次はいると思うんです。でもそれを直接的に表現しないことがモヤモヤしているひとつの原因かなと思っています。

 

やはり余りにも政次の死を大きく扱っているので、それへの主人公の思いを聞けないというのはフラストレーションが溜まります… それに加えて政次を死に追いやった張本人の近藤殿との関係も拍車をかけているかもしれません。戦を起こさず皆の為に最善の道をとっているんだというのはわかるのですが… 

 

そもそも近藤殿との過去の軋轢があるからこそ、謀られた(と思っています)のに、その原因を直虎が己の中で追求せずに、何故斯様な有様になったのかを振り返らずにいる。

 

もちろん、罪の意識があるのはわかっています。37回、龍が「但馬様」と名前を出したときに見せた直虎の狼狽ぶりと菊の花と小さい墓石のようなもの、政次の死への消えない負い目。同じように失った者を弔い悼みながらも、サバイバーズ・ギルトを克服しつつある龍と未だ湖の底でもがいているかのような直虎との対比がありました。

 

普段は明るく農婦として振る舞っているだけで、心の奥では深く癒えない傷がある。たぶん、私はそこを掘り下げて見たいんだなぁと思いました。虎松と亥之助の次世代がやってきても乗り切れないのは、政次→直虎が辞世の歌などを通じて明らかになったのに、直虎→政次が宙ぶらりんのまま、あやふやなまま、龍との生活に入ってしまっている36回で私の何かが止まってしまっているのかもしれません。

 

殿としての直虎

龍と穏やかな生活をしつつも、武田が攻め入ってきたと聞いたときに即座に殿の顔になりました。近藤殿の武田への帰順を促すために城にも入った。何をおいても、井伊のことを考えて行動する直虎は、自由に空を跳びたい龍とは同じ方向を向いていないと以前書きました。

 

だから、直虎が龍と堺に行くと決めたとき、やはり落胆しました… 母親の祐椿尼から孫の顔が見たいと言われただけで堺に行くと決めた… 政次への思いや井伊谷のことよりも龍と共に生きることを選んだのか…

 

そして38回で龍からほんとうに堺に行くと決めていいのか、と念をおされたときにも気持ちを変えず。でも、直虎が堺に行かないことはわかっているので、どうやって残ることになるのか…と疑問でいたら。

 

祐椿尼から言われたときと同じで、井伊谷に残ることも自分で決めることなく、龍から言われてのことでした。龍は良いやつですね。悪態をついて(でもその優しさが透けてみえる)突き放して、直虎の本分を思い出させるんですから。

 

この直虎の、他からの働きかけでしか決められない性分は何故なんだろう。何を描こうとしているのだろう、と考えています。

 

まず、自分の気持ちはさておき、周りの人のことを優先してしまう直虎の竜宮小僧的な面がひとつあるかなと思いました。孫の顔が見たい、という母の気持ち、娘を解き放ってあげたいという気持ちに応えるために堺行きを決める。

 

そして、実際龍の言うとおり、ここで百姓をやっていたとしても、死者が戻ってくるわけじゃないことを見つめ、次へ歩みだそうという思い。でもやっぱり、武田の情勢がわからないうちに堺に行くことを直虎がこころから望んでいないことは明らかで。

 

それを見ての龍の台詞、

 

龍「鬱陶しいんだよ、いちいち、いちいち。前の男に未練たらたらのくせについてくんじゃねえわ。んなの、こっちは嬉しくともなんともねぇんだよ!」

 

直虎が龍から言われるこの台詞ありきだったような気がするんですよね… 前の男が誰を示すのか、これもいろいろ可能性があると思いますが、私は素直に政次のことだと思っています。ずっと龍は直虎のそばにいながら、亡霊のような政次をふたりの間に感じて暮らしてきていて、そこからいつまでも抜け出せない直虎へ愛情も持ちつつも、ちゃんと向き合わなければ過去にはならないという事も感じていて、傷を舐め合うような関係に終止符を打つとともに、殿である本分を思い出させ、背中を押してやるヒーロー的な役割の龍雲丸。

 

直虎は「前の男に未練たらたら」であることを視聴者に示す。

  

龍雲丸の男っぷりを見せて退場させる。

 

最初から直虎が恋心を持つ相手として描き、政次もちょろっと嫉妬しつつ自分亡き後直虎を頼むと信頼をおく人物。政次との関係はあくまでも幼馴染で(政次もなつに求婚してますし)本当は龍とのロマンスを大々的にしたかったのかな…

 

最近読んだ脚本家の方が答えているインタビューのタイトルが「直虎と4人の男たち」なのですが、直親、政次、龍雲丸、虎松それぞれの人物との関係を深く描きたいんだなぁというのがよくわかりました。その中でも、

 

龍雲丸は、直虎にとってはもう一人の自分みたいなものですかね。ふたりの持っている核のようなものはとても似ている。生きてきた世界や立場が全く違うからいちいちぶつかるけれど、その奥底にあるものは同じだから、お互いの気持ちは分かる、分かってしまう。同じ波長を持つ、出会うべくして出会った相手として存在しているのが龍雲丸、ということです。それがオリジナルキャラクターだと言うところが、一周回って切ないなと感じてしまうところでもありますね。

 

PICK UP「直虎から直政へ - いよいよ最終章!」|特集|NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』

 

似ているからこそわかってしまう、というのはとてもよく伝わってきたのだけれど、それがオリキャラだから「切ない」とは感じなかったんですよね。彼女がその「切なさ」を表したいと思って、上の台詞と直虎との別れを書いたのかな…

 

決して直虎と龍雲丸のふたりの結びつきに文句や疑問を呈しているわけではないです。政次を失った直虎にとって癒やしになった人。ただやはり、最後まで井伊谷に残ることを直虎が自分で決めなかったこと、そして井伊谷に帰ってきた時に、理由を「袖にされました。未練たらたらのババアなどうっとうしいだけと」と、冗談めいてはいるものの龍のせいにしたのが私には残念で…

 

その後すぐに殿の顔になった直虎が、殿としての直虎が好きなんです… たぶん、ずっとドラマを政次の視線で見てきたところがあるもんだから、政次がいなくなったからと言ってもそれがやめられなくて、ふたりの関係の終着点が33回の最後であるのはわかっているのに、その先にも何かあるんじゃないかと、直虎の口から語られるのを待ち続けてしまうし、殿をしている殿が好きだから、井伊谷から離れて(政次じゃない)誰かと一緒に生きていこうとするのを見て悲しくなってしまったんだな…

 

直虎の思いは、虎松の登場と彼との確執を通して描かれるのかもしれないし、39回では、虎松の口から「但馬」という名前が何度も出てきたし、政次が皆のなかに生きているのはわかってます。でも。どうも39回を見ていて、次世代二人の登場によって自分の中にあったものが吹き出してしまったみたいです。

 

といろいろ書きましたが、私はこのドラマがとても好きだし、好きだからこそ出てくる気持ちもあるし、公式が見せてくれるものをワクワクして待つし、こんなに熱くなるドラマに会えて今年はほんとうに楽しくて嬉しくて有り難い気持ちでいっぱいなことは変わりないです。 

 

物語で癒される。物語で元気をもらえる。生きる指針のようなものをもらえる。それはとても力強いことですね。

 

こうして書くことで、虎松亥之助の井伊小野の尊さをようやく愛でられる気持ちにもなりつつあります。虎松が第四の男として直虎に井伊再興への思いをどう芽生えさせるのか、またこれからも楽しみに見ていこうと思います。

 

hydrangea.hatenablog.jp

 

 

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お越し下さりありがとうございました。

 

    直虎が虎松を見た時に直親を一瞬思い出したの、あれはなかなかすごいですねぇ…色んな意味で。

 

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