怖いもの知らず世間知らず恩知らず。でも奥に秘めたものも。
あらすじ
虎松(菅田将暉)は家康(阿部サダヲ)から「万千代」という名を与えられるが、井伊の家名を再び立てる代わりに草履番の役目を申し付けられる。万千代が松下の名を捨てたことに驚いたしの(貫地谷しほり)は、裏で根回しをした南渓(小林薫)のもとを訪れ、怒りをぶつける。万千代が井伊を名乗ることを納得できない常慶(和田正人)は浜松城を訪れ、松下でつとめるよう命じてほしいと酒井(みのすけ)を通じて家康に頼む。一方、直虎(柴咲コウ)は近藤(橋本じゅん)から「所領の安堵を願うつもりでは?」と詰め寄られる。井伊家の再興を望まない直虎は、万千代を説得するため浜松へ向かう。万千代は、万福(井之脇海)とともに慣れない草履番の仕事に悪戦苦闘していた。そんななか、直虎は浜松城で万千代と対峙。それを見た家康は直虎を呼び、本心を明かす。その後、直虎は万福から井伊家再興にかける万千代の思いを聞く。
怖いものなし15歳
39回のタイトル通り、野望野心の塊な虎松。直虎が言うようにいろんな人々が入っているようなキャラクターを体現している菅田将暉が光ってますねぇ… 皆さんが思ってることで今更なんですが、こころくんの幼少期虎松とのシームレスな感じが素晴らしい。(高瀬も)
強気で勝ち気で怖いものなどこの世になし。井伊のお家以外は全て思い通りにしてきた、井伊だって全部手にいれてやる、という才気が溢れ、見目麗しいけど般若顔が過ぎる15歳。
若い時の直虎に似てる。
幼少期、亥之助と囲碁対決の際に、虎松は直虎から教えを受けてましたね。
「諦めなければ負けない」
亥之助相手に負けても「もう一回」と言い続けることで負けない策を授けられた虎松。直親としのの血を先天的に受け継ぎ、諦めの悪い直虎と合理主義の政次の気性を後天的に受け継ぎ、和尚のブラックさも植え付けられているような。
ある意味最強な跡継ぎとして登場した虎松のキャスティングをよく当代随一、若手の横綱のような菅田将暉にできたものだと感嘆します。
上にも書きましたが、怖いもの知らずだし世間知らずだし恩知らずだし、もうこれまでかっていうくらいの若さの持つ傲慢さと真っ直ぐさと不遜な趣きと青さを見れるの嬉しさしかないっていうくらい菅田将暉の虎松。
39回で初めて出てきた時に直虎が直親を重ねていましたが、見た目直親を思い出させるっていうの100点満点ですよね。で、中身とのギャップがね…
自ら選ぶということ
39回で、小姓になれるとウキウキだった虎松が、松下ではなく井伊の名前で仕えるとなると、草履番からになるけれどどうする?と家康に言われてました。松下ならすぐに小姓。でも家の潰れた井伊ならゼロから。狸に良いように操られた感もありましたが、虎松本人の覚悟具合を知るには、自分で選ばせるというのが一番なはず。
「選ぶ」というワードを聞くと、どうしても政次の台詞、
「選ぶ余地などないではないか」
を思い出します… あの頃はみんながギリギリだったなぁ… 見てるのが息苦しくてしょうがなかったし、選ぶことなんてできずに直親を見殺しにするしかなかった政次の苦悩はあそこから始まったんだった。
それに比べれば。虎松は選べる。松下という養父の名前ならば小姓になれるし、井伊を選んだとしても死が待ってるわけではない。仕事も住む場所も着物も遥かに小姓とは違うけれども、それでも一生懸命働ける場所があって、傍には小さい頃からの友であり家臣である亥之助がいて、励ましてくれたり叱咤してくれたりする。
なんていう違いだろうと思う。政次が直親や直虎との関係を大事に思いながらもひとり寂しさを感じていたり、直親の死後直虎からは恨まれて孤独な日々を送っていたりした事を思うと、虎松と亥之助2人でいることが当たり前な39,40回は、直虎政次がやってきたことの集大成がここにあるんだなぁと感慨深いです…
井伊と小野が憎み合って生き延びるしかなかった時代から次の世代へ。まさに、新時代を開くために政次は命を投げ打ったんだ…
政次「にわかには信じられぬであろうが、井伊と小野は2つで1つであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするため井伊がなくてはならなかった。ゆえに憎み合わねばならなかった。そして生き延びるほかなかったのだ。だが、それも今日で終わりだ。みな今日までよく耐え忍んでくれた」
32回
政次は、井伊と小野の新しい形を見せる「明日」を迎えずに逝ってしまったけれども、彼がひとり、すべての怨嗟と呪いと業を背負って命を投げ出したからこその「今」があることを、皆が知っている。堀川城のような殺戮に至らなかったのは、だたひとり彼の血と引き換えだったわけで、「戦わぬ道」を体現し、自らの死で全てを納めた政次を、虎松は英雄視しているのだろうな、ということが台詞の端々に表れています。
井伊家を名乗るという前言を翻さなかった虎松は、亥之助と共に草履番としてお仕事を始めるわけなんですが、このふたりの素晴らしさは、ふたりでいることが当たり前だということ。
直虎と政次が周りを欺いて敵対関係を演じた過去を知っている私たちにはこれはもう… イノシシのように突進していく虎松を亥之助がなだめすかし、褒め、励まし、これこそがずっと見たかった主従関係。
井伊と小野はふたつでひとつ、を見せてくれる次世代のふたりが尊い…
また、虎松改め万千代がのちの井伊直政になることを私たちは知っていて、出世して徳川四天王に上りつめていく、その過程を楽しむことができる。それが史実が広く知れ渡っている人物をドラマで見る醍醐味だし、徳政令の花押にしか残っていない史実的に謎が多い直虎との対比として、違ったカタルシスを感じることができそうです。
戦うことに嫌気がさして名を捨てる決断をした直虎と、戦わぬまま戦いが終わってしまい負けた悔しさを持ち続ける次世代との対比がおもしろく、そこに亥之助と虎松とのブロマンス具合も素晴らしく、最後までわくわく楽しめそうで嬉しい限りです。
直虎の心理
虎松の養父、松下殿は根っからの善人なのですが、それだけじゃない頭の良さというか周りのことを理解しつつ善を演じる(わけではないかもしれないけど)というかそのポジションを天命としているところが見えてきます。その清廉さが周りの者の救いとなる、という直虎となつとのやり取りは、言うまでもなく直虎ー政次の相似形であるわけで…
直虎「松下殿は実によくできたお優しいかたじゃの」なつ「救いだと常慶様が言うておられました」直虎「救い?」なつ「兄が善なるものでいてくれれば、己がどんな役目を負ったとて救われる気がすると」直虎「そうか」なつ「殿。殿は但馬が不幸せだったと思われますか」直虎「仕える相手には恵まれなかったのではないかの」なつ「私は兄を慕っておりました。亥之助もです。兄はそれなりには笑っていてくれたように思います。あまり不幸せだったと思われると、私どもは何だったのかと言う気にもなるものです」直虎「はい」なつ「楽しみですね。これから。虎松様と亥之助が井伊と小野を名乗り、肩を並べて歩いていくのですね」直虎「そうじゃな」(井戸端の3人の笑顔)
あまり語られない直虎の気持ちが少しだけ垣間見える場面でした。なんといっても傍にあるのはあの碁盤…
直虎の気持ちは33回以降それほど表現されずにいるので、想像でしかないのですが、ちょっと書いてみます。
政次の死以降、直虎の中にあるのは、どうしようもない後悔と罪だと思います。龍雲丸との生活の中でも自分を許せない気持ちが残っていることが表されていたし、今回の台詞もそう。
なぜ自分を許せないか。なぜ自責の念をなくすことができないか。
きっと政次の死を肯定したくないからだろうと思うんです。不幸せではなかったと言われても、たぶん不幸せではなかったんだろうけれども、それを自分が言ってはいけないと。認めてしまって楽になるのは申し訳ないと。
政次が「選ぶ余地もなく」直親を死に追いやって自分を許せなかったように、直虎はあの磔の場でまさにその政次と同じように選ぶ余地がなかった。ふたりが同じ宿命を負い、その結果の自責と罪悪感はふたりだけが共有しているもので、そこから自由に解放されることは政次を手放すことになるという深層心理があるんじゃないか。
去るもの日々に疎し。
自分を許せないというよりも、許さない選択をすることで、そしてずっと悲しみと後悔のうちで政次を抱え込むことで、忘れることなく一緒にいようとしているのか…
罪悪感の熱量が直虎を奮い立たせ、槍で胸を突いた時の手のひらへの衝撃が井伊谷を豊かに、平和に、楽しく暮らせる場所にする信念に繋がっている。ような気がします…
血気盛んな虎松に「当主とはなんじゃ」と問う。直虎の思いと虎松の思いがぶつかって世代の違うふたりが出していく井伊谷にとっての最善が何なのか。家とは、当主とは、土地とは、幸せとは。そして井伊を守りつつ死んでいったものの思いは。
死者に報いるとはどういうことなのかなと考えています。
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