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おとわと直虎 ~37回 おんな城主直虎~

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尼じゃない殿じゃない直虎じゃない。寂しい… でも。

 あらすじ

元亀3年(1572)秋、井伊谷近藤康用橋本じゅん)の治世のもと、平穏な日々を取り戻していた。還俗し一農婦として生きていく道を選んだ直虎柴咲コウ)は、龍雲丸柳楽優弥)とともに新しい生活を送っていた。また方久ムロツヨシ)はあやめ光浦靖子)の刺しゅうの腕にほれこみ、ある提案をする。そんな折、堺で新たな商売を始めた中村屋本田博太郎)から龍雲丸に誘いの便りが届く。龍雲丸は直虎に一緒に堺に行ってほしいと告げるが、時を同じくして武田の大軍が遠江への侵攻を始め、井伊谷は危機にさらされる。祐椿尼財前直見)に背中を押され、一度は堺へ行くことを決めた直虎だったが、武田と徳川の雲行きを見守ることに。そんななか、徳川は三方ヶ原で武田の猛攻に大敗を喫す。近藤は劣勢にも関わらず徳川方として戦うことを選択。武田が井伊谷城に迫るなか、直虎は武者に化けて近藤に対面。勝ち目のない戦をせず武田に帰順するよう促す。近藤は城に火を放って逃げることを決める。

 

第37回「武田が来たりて火を放つ」|あらすじ|NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』

 

 

おとわと龍雲丸

還俗して髪の毛の長いおとわ。僧姿でも打ち掛けでもなく袴姿でもなく。初めて見る農婦姿、畑仕事、楽しそう。つつましくても龍雲丸との暮らしが心穏やかそうで… でも大写しになる菊の花がその暮らしの中に占める割合は大きい、のだろう。

 

誰かの死は、私たちの生活の中でも突然だったり、はたまた前もって心の準備ができたりいろいろで、後から故人のことをああだこうだと話をして涙したり笑ったり、そんな儀式のようなものを日常の中で死を悼みつつ、少しずつその死から受けた傷が癒やされていく…

 

だけれども、政次の死はきっと、こうだったああだったと言葉で言い表すことができるようなものではなく。おとわと龍との間での政次の存在が、不在の在としか言いようのない感じがなんとも… 菊の花と墓石のようなもの。そして龍雲丸の台詞。

 

龍「あんたがここで百姓やってたって但馬様は生き返るわけじゃねえし」

とわ「然様なこと我が一番よう知っておる」

 

負い目を感じ傷ついたふたりが手を取り合って肩を寄せ合って暮らしているその空間に、いつも居続けるひと。笑顔の中に影を落とすものをあぶり出す言葉、それを聞いたとわの表情。肉体が滅びても色濃く残る見えないその影が悩ましい。

 

それまでいるのが当たり前だったひとがいなくなる。それも突然に。私にも経験があって、その時点での未来に話そうとしたことや思っていたことがいきなり断ち切られて呆然としてしまって行き場なくふわふわと浮いていて、悲しいはずなのに現実にこころがついて行かずにぼぉっとしていたことを思い出します。

 

いまだふたりは暗闇のなかを彷徨っているように見えた場面でした。

 

 

呼び方

このドラマでは人物の呼び方にとてもこだわっていて、その選び方で人物の気持ちが見えてくるという歴史ものならではの面白さを見せています。政次が直虎(ここでは紛らわしいので直虎と呼びます)を呼びかける時にわざわざ幼名を使ったときには感動しましたし、直虎が嬉しさのあまり「鶴」呼びしたときにも盛り上がりました。

 

今回、直虎が龍雲丸のことを「かしら」と呼んでいたことに少しびっくりしました。龍雲丸は「とわ」と呼ぶのに対し、名前を呼ばずに前から使っていた「かしら」。龍雲党の仲間が誰も戻ってこないけれども龍は未だにあの党を束ねていた「かしら」だったということを忘れたくないっていう意味なのか。それともふたりの間にある距離のようなものを表しているのか。

 

そもそも正式な夫婦になっていたのであれば、龍が堺に一緒に行かぬか、と遠慮がちに言うだろうか?きっと、正式じゃないんだろうなぁ。それに龍と直虎は同じ場所で同じ方向を向いて生きていくように見えないんですよね。

 

それを感じたのが、龍が方久とあやめが結婚すると聞いたときにした微妙な顔。あてどのない旅をしていた龍の中にくすぶる気持ちが。そして直虎が武田が攻めてくるとの知らせを聞いて、やはり殿の顔に戻るのを見たときです。家の再興は諦めても、農婦になっても、直虎が小さい頃から持っていた「皆を守る、皆の為に生きる」という竜宮小僧の精神。ふたりの本質は変わることはないんですよね。

 

和尚がそなたらは早く堺に行け、と言った時、昊天さんも傑山さんも、もう殿ではないですし、義理もないと直虎に言ったのは印象的でした。小さい頃から兄弟子として直虎に接していたのは変わらないんだなぁと。

 

名前は「とわ」になったけれど、そう簡単に中身もそれまでの来し方も変わるわけはなく。なんかホっとしたんです… ずっと見てきた直虎が心も身体も疲れ切ってしまった前回があっただけに… 之の字が隣にいるのを見るだけでも。

 

井伊のために動く。働く。それが直虎を支える原動力であり、自分の幸せを横に置いても皆のことを考えることで彼女は生きているんだと思う。以前、龍雲丸が木材泥棒で捕まったとき、傑山さんから直虎の身の上を聞いて疑問を呟いていました。

 

龍「家なんざそこまでして守るもんなんでしょうかねぇ」

 

19回

 

きっと、家や井伊谷という土地に対する決定的な考えの違いが直虎と龍にはあって、その溝を埋めようとはしているのでしょうが、こうやって周りの国のごたごたに巻き込まれたり、堺という新しい土地への誘いなどがあると、ふたりの距離がさぁっと開いたように見えてきます。

 

農婦であればこそ直虎は龍と一緒にいられるわけで、ひとたび家のことで何かが起きると、それを見ないで他所の土地に行くことなどできるわけがない、とふたりとも考えていて、道が分かれるのをわかっていながら先延ばしにして一緒にいるようにも見えてきます。

 

 殿はやはり殿 

近藤殿に徳川への帰順を迫るとき。之の字がやおら刀を近藤殿に向けたとき。身分や生まれなどを越えて直虎はどうしても「殿」だった。地位が人を作るとはいうけれど、直虎は生まれたときから惣領娘で竜宮小僧で頭より身体が動いてしまう殿だった。

 

井伊谷の民を守るために近藤殿に仕えているのだと之の字が言い、近藤殿が討ち死にも覚悟でいると知った直虎は「是非もあるまい」と民を逃散させる。そして誰も死なせないために甲冑に身を固め兵の中に紛れる。

 

そして、ずっと「やってみねばわからぬではないか」と言っていた直虎が、近藤殿が「勝ち目はあった!」と声を荒げるのに対し、

 

「ございませぬ。井伊の兵はせいぜい500。二股二俣城は二千で守って落とされたと聞いております。井伊にだけは奇跡が起こると?!この上はどうか武田に帰順し開城の使者をお立てくださいませんでしょうか。そのお命は寺が救ったもの。何卒大事にはして頂けませぬでしょうか」

 

これまでの経験から、直虎は奇跡が起こるわけがないという現実主義になっていた… 

 

「国というのはまず民が潤えわねばなりません。民が潤わねば国が潤うことはないと存じます。民が潤えば井伊が潤います。井伊が潤えばそれは今川の潤いとなっていくと私は考えております。」
 
15回
 

「我らが望むことは喜びに満ちた日。井伊の目指すところは民百姓一人たりとも殺さぬことじゃ。」

 

29回

 

直虎を貫いている考えは民とともにある事。ちょっと話はずれるかもしれないんですが、ラピュタに出てくる台詞を思い出しました。

 

今はラピュタがなぜ滅びたのかあたしよく分かる。ゴンドアの谷の歌にあるの・・・

『土に根をおろし、風と共に生きよう。
種と共に冬を越え、鳥と共に春をうたおう。』

どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ!

 

天空の城ラピュタ」 

 

直虎が求めるものが民の幸せであり、自然と共に皆と平穏に暮らしていくこと。だから、それをめちゃくちゃにしてしまうかもしれない近藤殿をなんとか武田に帰順させるために自ら乗り込んで気持ちを変えようとする。

 

近藤殿もその直虎の気迫と覚悟にこころが揺れるんですよね… それでも言いなりにはならず…(近藤め!)

 

 

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ここの殿の美しさはなんとも形容し難い…和製ジャンヌ・ダルクかな。

 

 

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 今週は、ここの殿と之の字との場面が見た目も二人の持つ独特の主従関係も美しくて、見入ってました。先週の之の字の涙を知っているだけに、ずっとこころに秘めた之の字の殿への思いが健気で一途で、男女の性を越えた有り様に、ただただ尊うみ…

 

最後に

33回以降、どうしても気持ちが乗らないのはなんでなのかなぁって考えてました。やはり直虎と政次ふたりのことをずっと前のめりになって見てきたっていうのが大きいなぁというのと、もともと制作側が意図している方向があって、それに乗り切れてないんだなと。

 

きっと制作は、直親政次との幼馴染を中心に起きつつ、それぞれが男女として結びつかずに違う誰かと結ばれるというのをまず決めていて、それでも幼い頃の結びつきの強さは別で、それぞれ両立するものとして描こうとしてたのだと思うのです。

 

幼馴染というのは大抵は結ばれずに終わるっていうドラマ多いですよね。「ごちそうさん」だって源ちゃんはめいこが好きでいつも助けながらも報われない。「花子とアン」の朝市もそう。今度始まる「わろてんか」もそうみたいで。

 

直虎でもそういう風にと思ってたんじゃないか。直親はあっさりしのと結婚するし。それなのに、役を生きた政次が思いもかけぬ化学反応を起こした。視聴者は検地回で、脳筋スケコマシサイコパス直親から受けた仕打ちに政次が見せる表情と苦悩に落ちてしまった。(こないだ東京でオフ会のようなもので、皆さんターニングポイントは検地回と言ってらっしゃいました)

 

そこからどうしても政次視線でドラマを見てしまっていた視聴者(私)は、直親に振り回され、直虎にも見向きもされない彼の不憫さにどうしようもなく気持ちを寄せていったんだと思うのです。

 

更に直親謀殺の後、闇落ちした政次の持つ様式の美しさというか、秘するが花、の如くの物言わぬスタンスに魅せられてしまいましたね…

 

それは高橋一生がその役を生きたからであるだろうし、それは制作からしたら思いもかけぬ副産物だったんだろう… 本来当て馬のような存在だった幼馴染ポジションがリアルな現場で化けてしまった例なんだろうね…

 

今週は成長した虎松、菅田将暉が出演するとのことですが、彼が幼馴染3人のブレンドである演出、それをどう表わしていくのか。政次は虎松のなかで生きているとどう感じさせてくれるのか。(名前は直政になるんですから!)

 

政次というあまりにも大きな存在が喪失したことから生まれる奇跡のようなものを見たいなぁと密かに思っております。(というくらい政次ロスです…)

 

 

 

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お越し下さりありがとうございました。

 <おまけいろいろ>

1.「おとわ~~~」と画面外から呼んだのを聞いて、え!?龍がおとわ呼び??とギクリとしたのは私だけじゃないはず…(笑)

 

2.そして家康のエピソードをいろいろ入れて来るあたり、この先の直政との関係で大きな存在になるだろうし、コミカルパートを請け負いつつ史実を考えると…ということで阿部サダは2020年に主役も控えているし、期待大です。

 

3.「三十六計逃げるに如かず」という兵法を近藤殿が呟いたとき、あ、このひとただのクララじゃなかったんだな…と。

 

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